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午後の紅茶と陰謀論(38)伝説の王墳発見か?

  • 2011/12/11(日) 13:50:52

1700年前の渡来してきたばかりの先祖一族、弓月王率いる秦氏の王陵なのか?

父、伯母の1周忌で秦に帰郷したら、最近発見されたすぐ隣のマサキ山の中腹にでた大規模古墳のニュースで、地元の一族はちょっとした騒ぎになっていた。


子供のころから聞かされていた一族の伝承・・・

「マサキには大事なものがある」

「毛利軍に攻められた荒平城や、唐に抑留された白村江会戦後の8世紀の鬼城、西日本最古の6世紀の秦廃寺(一族はその跡地に住んでいる)よりも古いらしい」



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・・・しかし、古代史かじってる人ならわかると思うけど、
これ、やばいんじゃない?



http://town.sanyo.oni.co.jp/news_s/d/2011092923181174
昨年末に発見された総社市秦、一丁〓(いっちょうぐろ)1号墳が、墳長76メートルに及ぶ吉備南部最大の前方後方墳であることが、同市教委の発掘調査で29日までに分かった。墳丘を囲む二重の列石や小石室など特異な外部施設も確認。古墳時代前期の吉備内部の勢力図を知る重要な有力首長墓として注目される。



http://kibinokojima.blogspot.com/2011_09_01_archive.html
総社市秦の標高180メートルの山上に発見されたこの古墳は全長100メートル、4世紀前半の築造で吉備南部最大の古墳であることが分かったと言う。
4世紀前半と言うと「謎の4世紀」と言うことで、中国の史書に、3世紀末に書かれた「魏志」以降、「倭」に関する記述が途絶えた時代である。
諸説あるが、神功皇后~応神天皇の時代が4世紀末から5世紀はじめと言うのが、ほぼ定説になりつつあるが、ちょうどこの時期、「吉備」の国が最大の勢力を誇ったであろう時代の古墳と言うことで、とても関心を持たざるを得ない。



http://www.k2.dion.ne.jp/~yohane/00000dna6.htm
古墳が巨大化し始めた時代には、秦氏一族が4~5世紀に渡って、朝鮮半島から日本に渡来して、治水・土木・建築、養蚕・機織などの多くの大陸の技術を日本に伝えた。彼らは殖産豪族であり、経済力があり、大和朝廷(天皇家)に協力し、平安京の建設にも大いに協力した。(秦(はた)という日本の呼び名は”機織(はたおり)”から来ている)
  ここで、チベット系の羌(タングート、蔵人)が384年後秦を建国し、秦が陥落(417)した後の、その末裔が秦氏一族であるという説がある。この説によれば、秦氏は、マナセ族の末裔であり、ここからさらに日本でD2系統が増えていったと思われる。(すでに、BC231年に現在の中国の開封(河南省)にユダヤ人の居留区があった。)
  秦氏一族は渡来人のうちで最大の豪族であり、記録によると、応神天皇(15代)のとき120県(あがた)で数千人規模から、欽明天皇(29代)の時の戸籍によれば7053戸、家族も含めると3~4万人にも増え、当時の人口の10%前後にはなっていたと思われる。平安時代以降は、あまり表立った動きをすることなく先住の人々の中に溶け込んでいった。


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(これは5世紀当時国内最大規模の近くの造山古墳、制作にのべ総動員150万人説)



●法事の翌日、現地にでむいて、採掘現場のひとに交じって、埴輪の破片や、当時は海だった平野部から輝いてみえたであろう、白い石を触って、動画に納めてきた。


報道では、中心墳墓自体は70メートル級だが、繋がる副墳墓も含めれば、ゆうにその倍、140メートル以上はある当時最大規模サイズだ。

しかも、皇室歌はじめ、万葉集に謳われたマサキ信仰の山頂は、まだまだその先にあり、イワシロには、謎めいた話があることを、先代の小橋宮司の盟友の地元の某神社庁理事からもきいた。(先代小橋氏は戦後、神社の庭で卑弥呼の銅鏡を発掘したことで有名。なぜか今も所持しているし、国内最古という説もあるH古墳の地主ながら、先代と親子で訴訟をしていた後継者が発掘を拒否しているらしい)


その理事は、金達寿(キムタルス)史観派で、渡来王子アマノヒボコ伝承の秦の姫社神社(たたら、鉄の神様「もののけ姫」参照)の保護者でもある。たまたまバイクで訪問したら、声をかけてくれて、今回いろいろお話ができた。



今後なにが出てくるか、中枢の埋葬墓の調査は、発掘現場の市の職員に聞いても、「ノーコメント」なにも答えれない状況だという。秦出身の片岡市長(ハシリュウ元秘書官)が色気をだしているという噂もあるが、ここは、謎の4世紀を解明し、シルクロード渡来秦氏(ユダヤ末裔説もある)が、吉備とその後の大和朝廷成立にどのような貢献をしたか、ほとんど知られていない秦氏吉備王国のアピールをするよい機会ではないだろうか。


地元秦出身のハシリュウが総理大臣時代に誘致した、厚生省保養施設の工事で、すでに似た墳墓は数多く見つかってはいたが、文化庁に圧力をかけて、保存法を無視して工事を優先したという逸話も、今回はじめて関係者から聞き出したが、日本のルーツが、朝鮮、中国、シルクロード、ユダヤに深くかかわっていくかもしれないという重大な考古学的史料なので、今ばかりは、隠ぺいすべきではないだろう。



今は、時間がなくていえないが、この王墓伝説発見をすでに昔から予言していた人たちは、少なくはない。

一気に、消えた東方ユダヤの復活予言、旧約聖書の東方の光伝説までは、混乱するのでいえないが、少なくとも、明治天皇が密かに遺言で残した孫の某キリスト教会牧師による「神秘日本」程度は、公開すべきだろう。


まさか、アークがでるとは思えないが、穢れを払い、蟠蔡(はんさい)が特長のユダヤ文化祭祀の痕跡がでてくる可能性もあるのではないだろうか。

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吉備造山古墳は大王墓(応神天皇)だった?

  • 2011/01/07(金) 01:58:59

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4世紀のメイフラワー号、謎の秦氏と天皇誕生ファンタジー

  • 2008/04/29(火) 02:16:42

●4世紀のメイフラワー号、謎の秦氏と天皇誕生ファンタジー

 皇室の男系議論では、「万世一系をめぐる冒険」がたいした広がりも見せないで、萌える議論も展開もなかったので、拍子抜け、というか「初代天皇も特定できないのに遺伝子、とな!」という印象だった。

 しかし、家族や仲間内でもみんなスタンスがビミョウなので、滅相なことはいえなかったが、親王が誕生されてから「最近、空気に淀みがなくなった」「竜の雲をみた」というくらい、男系派はこの世の春を謳歌している。 (笑)

 で、あるトピにかいたのだが、吉備と大和の連合による「天皇の誕生・大和朝廷時代の幕開け」とは、こんな感じでは?  と先祖一族(吉備・秦氏)の伝承も含め忘れないうちに書き残しておく。いずれブログを用意したい。(有力な学説でもある)

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*******************************

●熊襲討伐遠征の途上、三輪の仲哀王がなくなり、河内駐留のホムタワケ(後の応神天皇)は急遽、同族で部族連合中核の吉備王と葛城王に同盟の使いを出し、神功皇后は、大和三輪に戻る軍団を拠点吉備で応神天皇=吉備王同盟の保護下にいれる。将軍武内宿禰の仲介で、新王朝は平和裏に「現代に続く大和朝廷連合体制」を創設し、三輪王朝の血縁の忍熊王は宇治で破れ、近江で琵琶湖に身を沈める。

 
 倭連合の長老格の吉備王は、新王朝の始祖応神に兄媛を与え、代々有力な外戚として瀬戸内の軍事権を大和連合に供与するかわりに、従来どおり半島南部の支配地加那諸国、金官加羅(後の任那日本府)の安全保障を大和連合に保障させ、潜在的脅威の北九州勢力と紛争絶えない新羅、百済をけん制する。


 新連合朝廷の応神天皇は将軍葛城襲津彦を半島に遠征させ、新羅から南部に集結していた、五胡十六国の混乱期で中華大陸から追われた前秦政権系亡命団(秦[羌族]、チベット・トルコ系鮮卑、河西諸政権)後に始皇帝15世を自称する弓月王らテクノクラート系の秦氏(はたうじ)移民団をまねき、「市場導入」という殖産や「権力の長期維持化」を可能にする古墳の巨大化などの都市土木、知識集約と行政執行、人民や資産、宗教的言霊の所有化を示した「文字・漢字」普及をさせる。

 秦氏を迎いいれた大和朝廷連合は、税制律令の先駆的公共事業ともいえる「前方後円墳」造営を通じて、後の「テラ・寺」創設につながる「宗教祭司の制度化=天皇制度国家」へ向け、独自の天皇祭祀の体系を理論構築し、地方政権の豪族の土俗祭事吸収・祭祀統合をはかっていくこととなる。

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*弓月王の末裔、太秦(族長王)秦河勝は聖徳太子の顧問、財政パトロンとして、
12階位制度、憲法17条制定、隋の煬帝への有名な対等外交の書を検案したと
いわれる。秦氏が尽力した平安京遷都のとき、桓武天皇を迎えた御所は、彼の
邸宅跡だったという説もある。
 


●かなり断定的に、現代に繋がる皇室の祖、応神天皇デビューのくだりを推論したが、ここにおおきな疑問がある。なぜ彼は、朝廷が朝鮮半島での数年にも及ぶ戦役という犠牲をおかしてまで、亡命者集団でしかないはずの弓月王(ゆんずのきみ・ゴンユゥェワン)率いる秦氏を呼び寄せたのだろうか?

 さかのぼること約100年。
266年に卑弥呼後継の台与が晋に使い、その後、邪馬台国畿内説最大の根拠である マキムク・箸墓古墳に吉備の第三期の特殊器台(後の埴輪)が登場し、出雲やほかの土器、古墳様式が合流していく。 
 大和朝廷以前の三輪王朝、大物主の尊と縁の深い倭迹迹日百襲姫(やまと・ととひ・ももそ・ひめ)は、箸墓古墳の主で崇神の叔母、吉備津彦命の姉にあたる。ちなみに、吉備の浦間茶臼山古墳は箸墓古墳の二分の一の相似形といわれ、長さも幅も二分の一である。

 そこから「吉備大和連合説」という、学会の公式見解は合理化され、一部からは「最後の吉備女王台与説」「邪馬台国=吉備説」も出てくるのだが、とりあえず、出雲、吉備、瀬戸、東海、越、紀伊、北九州の祭祀様式が奈良に集結していくことだけは事実なのだ。

後の埴輪の元になる吉備特殊器台


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 また周濠内の堆積土から木製の輪鐙(馬具)が発見されている。同時に出土した布留1式土器により四世紀のものとされるが、これにより列島内への騎馬文化の流入および東アジアにおける騎馬文化の交易伝播がすでになされていたとされる。「騎馬」や「埴輪」のプロトタイプとなる「吉備式特殊器台」を中心に列島の有力墳墓の祭祀様式は、急速に天皇の元に編集し制度化されていく。

 
 大和朝廷統一の流れを強化した権威が、卑弥呼邪馬台国の大陸交易、朝貢にあったのはいうまでもない。魏や晋の軍事顧問来日滞留の威圧や青銅鏡の配布、漢字という文字による「占術」「律令」は、まだ部族経済を出ない倭人や海人、土豪の人びとにとっては、魔術のごとき効果があったであろう。

 当時の政治情勢から、かって戦後の一大ブームとなった騎馬民族説を取り出すわけではないが、遺跡などから吉備には新羅・加耶系渡来人集団が建国した王国であるという説が根強い。日本書紀などの記述だけでも、半島南部の経営は吉備がしており、繰り返される大和外戚としての王位継承干渉内戦では、新羅や半島諸国に応援、同盟を求めている。

 「応神天皇は秦族の大王」で、 「女王国を征服したのは秦族の誉田別命、のちの応神天皇である」という江上博士以来の秦氏征服説では、応神天皇記述にでる弓月王の渡来を「本隊の渡来」として見る考えもある。応神軍はわずか1000程度の矛と弓銃?で各国を睥睨したという説もあるが、 彼らに最新式の武器を提供し、新天地の護衛軍たらしめていたのが秦氏の弓月ら ウズマシャ(太秦・部族王)ではなかったかという説だ。

 常時軍という概念の無い部族軍同士の戦いでは、戦闘は政治的セレモニーでしかなく、 実際の優劣は、通商利権と人民管理の租税ビジネス、呪術的宗教文化の容認排斥交渉こそが全てである。その調停役は形式的であれ、政治的上位概念にあった中華各国の監督機関 にあったと思われる。

 つまり、「秦始皇帝15世也」を自称した秦氏こそ、東アジア最大の政治的権威であり、大和連合朝廷は、最大限その系譜と知識を活用したという合理的な政治説明である。

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●ところで、この世界史的にも異常ともいえる巨大陵墓文化のノウハウは、どこからやってきたのだろう。中国地方の出雲=吉備古墳形式と始皇帝陵墓にみる大陸北方遊牧系説もある、土木好きな秦氏の先端技術が、日本においてある時期に急速に合体したものなのだろうか?

 秦氏といえば、有名な平安京建設遷都だが、その前に、すでに河内のまんたの堤、吉備の秦にも高梁川のたたら堤がある。5000ヘクタールの吉備平野の水利開拓で、12村に水流を整備した堤は今でも活用され健在だ。筆者の一族の住むそのものずばり「秦村」には、秦風の川の神を祭祀したといわれる港湾跡の川原に巨大な20メートルを超えるイワクラの石畳神社(聖山正木山)があり、スサノウが祀られている。

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 遺跡、日本書紀などを吟味すると、元伊勢の「葦の宮」(現・足守八幡)に里帰りした后兄媛を追い滞留した応神天皇の記載などから、遅くとも380年代には吉備(当時の呼称はhada-秦・葉田)に秦氏は入植している。ちなみに神武伝説は、地元では吉備王朝の傭兵説もあり、あまり人気はないが、それでも神武が8年滞在したといわれる高島宮の大和への出立の日時が、2月11日なので、朝廷は吉備で建国を祝い、東征に旅立ったという声(九州東征説ならぬ、吉備東征説)もある。

 たとえば、吉備楯築王説もある吉備の英雄、鴨(カモ)別の伝承では、隼人ら薩摩勢力 (狗奴国か)に侵略された阿蘇の皇女から助けの要請があり、鴨は女装して敵陣に 乗り込み平定し、阿蘇=吉備同盟が成立するらしい。 この逸話は、大和朝廷のヤマトタケルの英雄伝としてコンバージョンされ、いまに伝わる。

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*鴨は賀茂神社、ヤタノカラスに繋がるという説がある。

 つまり、天皇家万世一系の始祖のことは、彼らより古い歴史と伝承をもつとみられる日向、出雲、吉備、三輪の末裔ら地域住民から見れば、一地方英雄のサクセスストーリー話であり、藤原以降の貴族官僚政治の意図的な記紀編纂のため、「収奪、無断使用、転載、盗用」のリミックスがひどすぎて(笑)、正直よくわからない。
 
 ただ、物証から考古学的にいえることは、楯築、箸墓古墳以降、5世紀初頭の国内最大の「造山古墳」は吉備で建造され、その墓石は阿蘇産出である事実。 建造に推定20年、延べ150万人を要し、その後の応神稜、仁徳稜の巨大化の先鞭となる国内4位、非皇室墳墓では最大の古墳が大和でも北九州でもなく、吉備に存在している事実である。

 つまり、紀元400年当時、瀬戸内だけでなく日本列島から朝鮮半島南部の支配地にいたる大和連合朝廷の本拠地、つまり首都機能は、依然として吉備におかれていたのではないか、という単純な結論だ。

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 吉備(hada-秦)では紀元8年の前漢クーデター政権の「王蒙の貸せん」(当時の国際通貨)も国内で唯一大量に発掘されている。2世紀以前の弥生最大の楯築(たてつき)遺跡(祭祀墳墓。農耕天文観測?)の木管からは、大量の祭祀用の水銀(朱)痕も見つかっている。つまり、神武や応神天皇が歴史に登場する以前から、当地には華人らとの交易や大陸からの入植都市が存在している。なぜか日本史はこの事実に触れたがらない。

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*2世紀国内最大の吉備楯築遺跡の中核、通称「亀石」。中東ペルシャ風の縄模様の「弧帯文」模様は、その後の大和朝廷の皇室文化を象徴とするデザインとして、吉備特殊器台、埴輪、天皇祭祀コスチュームとして継承されていく重要なキーワードでもある。
 写真左に有名なレリーフ(獅子、人面紋章?)がみえる。古代日本では珍しい双円墳遺跡だが、初期の前方後円墳のプロトタイプという説もある。

*「宇佐在来の比売神と合休して七世紀以後の応神八幡神ができあがった」ということには、 大変大きな意味が含まれる。安藤輝国氏や小島信一氏は「応神天皇は秦族の大王」で、 「女王国を征服したのは秦族の誉田別命、のちの応神天皇である」というのである。 応神天皇は秦族の大王であったといわれると、奏氏族がそれから出た新羅・加耶系渡来人集団 である天日槍集団の天日槍と、応神とのからまりが気になる。
ーー秦氏と応神八幡神・天日槍・神武東征伝説(日本の中の朝鮮文化(10)、金達寿著、講談社文庫、1993年)

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●幻想的な男系議論は、あくまで神話的な万世一系の伝統維持に重要だが、民族のルーツを曖昧にしたままでは、21世紀風のナショナリズム構築に停滞を招くだろう。韓国のようなプチナショナリズ主張が爆発する国際的な東アジア史学や北京政府のような「日本華人コロニー開拓説」に対抗するためには、現在の万世一系研究と天皇愛国思想では、あまりに弱い。


 では、彼らはどこからやってきたのか?

 「神の国」といっても、実在証明される初期の応神天皇ら始祖は、4世紀の地方政権でしかない。在地の豪族が平和裏に連合して、半島や大陸の諸国と無事交易をしていたとするには、あまりに当時の東アジアは混乱し激動していた。北九州から数日で中国の主要な港湾に往来できることを考えると、半島南部も直轄していたという説が強い連合朝廷が、その政治軍事的混乱から無関係であるとするのは、あまりにナイーブすぎる。

 当時の大陸は、三国史時代の漢人政権は南(東晋)に退けられ、首都中原では、チベット、河西鮮卑らペルシャ・トルコ系遊牧人種の諸政権が乱立した五胡十六国の混乱期なのだから。

 十六国(前趙,後趙,成漢,前涼,前燕,前秦,後秦,後涼,後燕,西秦,南燕,南涼,北涼,西涼,夏,北燕)には、秦を名乗る政権だけでも3回登場しており、苻堅{前秦高祖明帝}(前秦) Fu2Jian1 338-385 にいたっては、テイ族出身であるが中華文明に惚れ込み、多民族の融和を目指して長安、洛陽の住民を50万人規模で強制移住させるなどの人工的都市政策を実施している。

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 特に筆者の一族姓でもある秦・河西は、禿髪利鹿孤{南涼康王}(南涼) をはじめ、歴代の遊牧系異民族が中華侵入の要地として名乗る地方政権であり、初期のイエス伝承や仏教流入、他民族の宗教や芸術が融合するシルクロードやユーラシアの草原につながる中華政権樹立の興亡の激戦区であった。河西回廊は、古代のシルクロードの一部分として、古代中国と西方世界の政治・経済・文化的交流を進めた重要な国際通路として知られる。

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*前秦の苻健(317-355)時代のエレガントな詩作 



 
●大陸で、吟遊詩人が竹林に遊ぶ、すでに中世的な清風の時代。

 日本列島にようやく帽子をかぶったツーピース服装の馬に乗り、文字を操る移民団が登場する。住居にオンドル(暖房装置)を持ち、ポシェットから鉱石探しの地図をとりだすことができたこの一群こそが、1600年前のメイフラワー号、弓月王に率いられた渡来秦氏なのである。

古代ユダヤ交易商人の埴輪



 秦氏は後世、自らが建設する「千年の王都・平安京」の地、京都山城にも移住し、後に初代大蔵卿となる秦大津父や聖徳太子の顧問として有名な秦河勝など代々の太秦(族長)が憲法17条、12階制度を補佐実施し、一挙に天皇近侍として朝廷領地と公権力の拡充を図る。
 
「天皇制度=律令・公地公民」普及では、抵抗する在地豪族の隷属民を、軍事威圧ではなく、機織、須恵器、竈、文字などの先端文化のインキュベーション普及、市場導入による「儲け話」で解放していく姿は、なにか現在のグローバルスタンダード手法を彷彿とさせる。為替、税制度、市場的な投資、教育、情報の意義を知っていた、シルクロードの殖産ビジネス集団ならではのことだろう。

 
 軍事ではなくピースフルな商売により土俗豪族から解放された「天皇の公民」をテラや神社に束ね、律令殖産国家経済を模索することから「日本人」という「和の民族」が誕生したとしたら、どうだろう。

 
 秦氏は京都を拠点に賀茂神社、松尾神社、広隆寺をはじめ、多くの寺院神社を建立するが、後には時代ごとに、宇佐八幡(鎌倉時代)、稲荷(江戸時代)といった全国に何万箇所ものフランチャイズ型神社を建立する。その意図は、すでに宗教的規範を超えた経済プロジェクトであっただろうし、そもそも、秦氏こそが天皇制度の根幹の祭祀制度と神道、仏教両面の同時導入を聖徳太子時代に果たした張本人とも言われているので、この場合、現代的な意味での宗教ではなく、文字や殖産、律令の普及、つまりすでに中世の時代を迎えていた大陸的な文明、「ライフスタイル」や文化的規範を革新していったとみても差し支えないのではないだろうか。




●秦氏が古代ミステリーのなかでも有名なのは、そのルーツの意外さにもある。
なんと、秦氏はローマ化される以前の12使徒時代の思想を残す「原始ユダヤ・キリスト教徒説」(戦前の京大佐伯博士他)末裔としても知られている。

 たとえば、日ユ同祖論の根拠でよくつかわれる
『太秦』(うずまさ)=イシュ・マシャ=イエス・メシア=イエス・キリストの意味。ヘブライ語(古代語アラム語)で解読できるという「ネストリウス派・景教徒=秦氏説」がある。

佐伯博士は景教の世界的権威で、よくいわれる時代考証の間違いは、秦氏=原始ユダヤキリスト教=ローマ教会に枝分けれする前の初期エルサレム教団の末裔説として、博士の晩年には訂正されていた。 厳密には広義の東方教会のなかには含まれるという話。秦氏は数世紀にわたり渡来してきてるので、同じ秦氏のなかでも違う民族であったり、時代背景が異なる場合もあってよい。

 まさに東洋の「ダビンチコード」だが、ロマンの領域をでる証明はまだ弱いのが実情だ。


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秦氏の国内分布図。初期の太秦(族長)命名は天皇がしていた。
15歳以下の秦氏からなる宮中小子部は、天皇祭祀の中核である呪術をなしていたという説もある。


●京都の大酒神社はもとは大辟(おおさけ)神社と称され、祭神を秦始皇帝、弓月王(ゆんずのきみ・ゴンユゥェワン)、秦酒公(はたのさけきみ)としている。 秦始皇帝14世の孫、功満王(こうまんおう・ゴンマンワン)が中国の兵乱を避けて来朝し、 ここに勧請したのが始まりとされる。 (大酒神社縁起)

 この功満王の子とされる弓月王が百済から(広隆寺伝)127県18、670余人を統率して渡海、その孫が酒公だとされる。(畿内で40万の人口と推測されている当時、これは 5%にあたる。)その後、始皇帝直系子孫の集団はAD539年欽明天皇のころには7513戸 (一戸15人に数える)およそ10万人におよんでいたと言われる。 以上は大酒神社のあくまで伝承であるが、中国の文献(史記)では違った様相を呈する。

 秦氏は、秦始皇帝(しんのしこうてい)を祭り、かつ、祖霊の名前、 「大避大神」を兵庫坂越の神社名に付けている。

 大避大神とは、ダビデ大神と読める。
「大辟」はダビデの漢訳。Davidの発音はダーヴィ、 ないしデイヴィー。大は「ダー」、辟は「ビ」と読める。 驚くことに、中国ではダビデ大王を大闢(ダーピー)大主と表記する。 明らかになることは大酒神社と大避神社は両社とも一族の祖霊、 イスラエルのダビデ大王の神社となる。

 この逸話を最初に産経新聞で紹介した記者は、後に司馬遼太郎と名乗り、このペルシャからはるばるやってきた一族の末裔を題材にして処女作を発表し、国民的作家の道を歩むことになる。同様によく謎の飛鳥を探索した松本清張といい、昭和のシルクロードブームといい、日本人はこうした遠大なロマンが好きなのだ。

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*河勝が聖徳太子から授かった広隆寺の弥勒菩薩象は国宝第一号。


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古来より、太秦寺、景教寺院説がある。境内で10月に行われる謎の牛祀りは、
マダラ神、中東のカーニバルやミトラ信仰との関係説がある。


 彼らの本質は渡来人というよりも、日本に拠点を移したこグローバルな交易人なのかもしれない。奈良大仏開眼式のおりに、中華圏どころか遠くインド、ジャワ方面からも僧を招聘するなど、スケールが大きく、シルクロード貿易にも関与し、正倉院、宮内庁雅楽に残るペルシャ・トルコ中東繋留文化の保護者でもある。

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摩多羅神曼荼羅



能の始祖、世阿弥や宮内庁に雅楽を伝えた東儀家、「君が代」制作の林家は、聖徳太子の顧問であり、上宮(皇室)の財務パトロンであった太秦(ウズマサ・族長)秦河勝末裔といわれる。雅楽は、百済経由の舞踊技術を四天王寺で河勝が次男に学ばせたもので、題材演目にペルシャ王や景教つまり東方キリスト教会の調律に影響されていることは、宮内庁自身も認めている。

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 秦氏に近いトルコペルシャ系の鮮卑族が首都を運営する唐では、一時期、東方キリスト教である景教が公認され全盛を極めており、奈良の朝廷にはペルシャ人の医師や商人、官僚さえいたのだから、天皇家に近い代表的な殖産商人氏族である秦氏が、それら大陸の文化を知らないはずが無い。

 聖徳太子伝説が聖書の影響下にあるという説はいうまでもなく、いわゆるセンセーショナルな「日ユ同祖説」等も安易なトンデモ説で切り捨てるのではなく、最近、ウイルス研究などのYAP+遺伝子調査によって、古いユダヤ、チベット、日本人の共通性が証明されたように、カルチャースタディな視点から研究を深めていくべきだろう。

 ちなみに、伊勢神宮の内宮と,宮中の賢所にあるとされる八咫鏡[天照大神の御魂代]に書いてある文字の謎に迫る- 明治時代の文部大臣,森 有礼が唱えた「神鏡ヘブル文字説」 は必見。

戦後、昭和天皇、三笠宮本人もタブーを破って皇居のレプリカ、伊勢の実物をみようとしたが、断念したという噂は新聞でも報道され話題となる。三笠宮はその後、ヘブライ語をマスターして、古代オリエント学の専門家になってしまうほどで、皇室当人にとっても古代ユダヤ伝説は謎だったらしく、明治天皇は、娘のしのぶに「子供にキリスト教を学ばせるように」と伝え、明治天皇孫の小林隆利牧師(ナザレ教会)が誕生する。

また、青山学院のヘブライ語学者左近博士は、八咫鏡のヤハエの聖書の有名な言葉を判読させ、秘伝とさせた明治天皇の逸話を中田重治牧師(ホーリネス教団)にのみ伝え、やがてそれは生田目牧師の「神秘日本」という書として世に出て、戦後のキリスト教関係者を震撼させることになる。
http://godpresencewithin.web.fc2.com/pages/zatsugaku/yatanokagami.html




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*イスラエルの過ぎ越しの祭りと同日に京都の祇園(シオン)祭りはある。神輿は、東大寺の大仏開眼式のイベントのため、秦氏が宇佐八幡から巫女を乗せて奈良までパレードしたことに由来しており、基本は船形である。


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同じ日に四国剣山では海からお神輿(舟形)を移動させる。


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インディ・ジョーンズ レイダース/失われたアーク《聖櫃》のユダヤ人監督スピルバ-グとルーカスは、ロケ地のひとつとして、剣山で予備調査までしている。


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*秦氏の賀茂神社の元の神社である「蚕の社」の有名な三柱鳥居。天皇洗礼説のバプテスマ(池)のなかにあり、三井グループの守護神社でもある。酒の神様=松尾神社は秦氏なので、サントリー の社名もここからという逸話もある。三菱、住友、薩摩島津、土佐長宗我部、勝、北、南、藤原ら華族系、明治維新派は秦氏末裔。最近、古代の三柱鳥居が、諏訪神社、対馬とか古い神社で続々再建されてるらしい。

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*東京国立博物館に所蔵されている陶棺「寒羊図」の写真(岡山県美作町平福出土)
中央アジア~吉備に共通した陶棺の謎。国内の80%近くが吉備に集中。
「寒羊」とはイスラエル原産のしっぽの大きく太い種類で古代中国にも確認されておりユダヤ人と中国の関係をうかがわせ、また尾は劣悪な環境に耐えるために脂肪が蓄積されたもので「脂肪羊」ともいわれる。羊はユダヤ人にとって神の使いで、正倉院にも羊をモチーフにした国宝がある。

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●男系論で万世一系を人類的遺産として保護することに、無論反対ではない。
しかし、戦前のような曖昧で稚拙な天皇論では、「グーグル化していく世界」に、抵抗すらできないで天皇の住む場所は消失していくだけだろう。


 日本民族にあまねく流れる雄大な縄文や渡来民族の血流。
 我々のシンボルである天皇とは?


 謎の4世紀。
 東アジア版メイフラワー号の渡来秦氏らと応神天皇軍団のつながりこそが、日本建国のファンタジーである。その200年後に、同族の鮮卑系が再び隋帝国として中華を統一をするが、煬帝をうならせた「日出づる国の天子」の書簡を送ったプライドを持った秦河勝と聖徳太子コンビによる、「対等外交」、尊厳ある「日本独立宣言」への序章は、すっでに先達のこの両者の関係から始まっている。


 戦後60年、敗戦により連合軍の覇権国家、米中の属国といわれても仕方のない立場である日本。

 民族の危機を見つめるためにも、我々自身が、今こそ先祖たちが歩んできた遠大なユーラシアの風を思い出すべきだろう。われわれには、この島に閉じこもるいわれはない。


●参考
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*『日本書紀』に応神天皇14年のとき、弓月君(ユツキノキミ)が百済より移民を率いて来たことが記されています。弓月君は「移民集団は新羅に阻まれて加羅の国に留まっている」と応神天皇に苦情を訴えました。『新撰姓氏録』には弓月君は融通王と見え、秦始皇帝の子孫とされています。融通王は結局、127県の百姓という大集団を率いて倭国に移住し、彼等は秦氏と呼ばれ、族長は融通王以下、真徳王、普洞王、雲師王、武良王と代々王号を名乗るのですが、これは秦始皇帝の子孫というよりも、大帝国が瓦解した後の前秦の王族集団と考える方が適切ではないかという説がある。
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*『隋書倭国伝』に、609年に倭国に派遣された隋の使節の見聞によるとして「筑紫の国の東に秦王国があり、そこの住人は中華に同じく、さらに十余国を経て海岸に至る」という記事が見え、筑紫の国の東に「秦王国」の存在が明記されている。

*筆者の先祖である吉備秦氏(河西姓)は、遺跡や日本書紀記述などから、著名な京都太秦、赤穂秦氏よりも早い時期380年頃には入植していたとみられている。4世紀の五胡十六国時代、中華北部の秦の故地であるシルクロード入り口の地方政権、河西王は、その後の数世紀、漢人らを南方に封じ中華帝国を制したテイ族、河西鮮卑族(トルコ系、チベット系説)の前秦、後秦、南涼王朝の基盤でもあった。

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*荒涼としたシルクロードの入り口、河西回廊の光景。


この時代の歴代非漢人系王朝は、騎馬を駆使した駅伝、巨大墳墓、屯田制度、東方キリスト教(ユダヤ)、大乗仏教、道教、ゾロアスター教などの認知と融合、住民の移住政策、計画都市、律令制度の確立など、後の隋、唐時代の中華文明の先駆的存在となる。

歴代の秦一族が王朝興亡の度に、新天地であった同族の列島入植地を頼って亡命、交易移民することは自然の流れであったろう。秦氏の渡来は、紀元前から9世紀の数百年に渡り、何度も半島の新羅、百済、任那を経由して繰り返されている。

*紀元前2世紀から紀元4世紀の秦韓について、6世紀の梁書には、秦人の流入、養蚕と稲作の説明がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B0%E9%9F%93
前秦の苻健(317-355)の次の「大秦天王」を名乗った苻堅の墓は彬県大仏寺にある。
http://www.iijnet.or.jp/xipec/sight/meisho/haka02.htm

*中華中原からみた河西国、倭国はともに周辺国ではあるが、シルクロード交易を通じた交流が認められている。
http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/sitemap/sitemap.htm
宋書卷五 本紀第五 文帝 元嘉二十年
●「河西國・高麗國・百濟國・倭國、 並びに使を遣わし方物を獻ず」

宋書 卷九十七 夷蛮伝 倭國 
●倭國は高驪東南大海の中に在り、丗ゝ貢職を修む。
 高祖永初二年、詔して曰く、「倭の讃、萬里貢を修む。遠誠宜しく甄(あらわ)すべく、除授を賜う可し」と。
 太祖元嘉二年、讃、又、司馬曹達を遣し表を奉り方物を獻ず。
 讃死して、弟、珍立つ。使を遣し貢獻す。自ら使持節、都督、倭・百濟・新羅・任那・秦韓・慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭國王を稱し、表して除正を求む。
 詔して安東將軍、倭國王に除す。
 珍、又、倭隋等十三人を平西、征虜、冠軍、輔國將軍の號に除正を求む。
 詔して竝びに聽(ゆる)す。
 二十年、倭國王濟、使を遣して奉獻す。復た以って安東將軍、倭國王と爲す。

*北魏の王家、拓跋氏は自分の身内を貴族とし、他の鮮卑族と区別するため元氏を名乗った。これは拓跋氏が中華思想に染まってきた証拠に他ならない。ここで重要な事がわかった。その拓跋氏の所へ、禿髪(とくはつ)氏が河西王国がつぶれたために逃げ込んできた。もともと同族であった北魏の王は彼等を歓迎し、「源」と名乗ることを許した。王、大武帝は彼に「そちたちは、朕と源を同じくする。事に因りて姓を分かつ。今は源氏と為すべし。」と述べたという。つまり、元と源は同族とした。
http://mayo.blogzine.jp/blog/2009/01/index.html

*秦氏の謎について:
 秦氏…、朝鮮半島東北部の新羅(4C中-935)に在住していた…。……新羅が377年にはじめて前秦(チベット系・(てい))に朝貢したという記録が宋時代の文献にあり、 この時代からチベット系の人々と新羅との関わりが出来上がる。… そのうちの、チベット系の羌(キョウ=タングート、蔵人)が384年後秦を建国し、わずか33年後に後秦が滅亡(417年)したが、 その新羅へ逃亡した民の末裔が秦氏一族であるという説がある。…(BY.田辺尚雄氏(1883-1984))
 そして、この羌は、アミシャブ(イスラエルの古代ユダヤ人調査機関)が発見した現在の中国四川省の少数民族の羌岷(チャンミン)族と同じである。 羌岷族は、後秦滅亡の時、山地へ逃げた民の末裔で…、秦氏は、マナセ族の末裔であることが考えられ、… すでに、BC231年に現在の中国の開封(カイファン、河南省、シルクロードの終点の一つ)にユダヤ人の居留区があった…。…
 しかも、秦氏は、日本の古神道に与え…、景教徒ではなく原始キリスト教のクリスチャンだったと考えられる。 なぜなら、ローマ帝国でネストリウス派が異端とされたのが431年のエフェソス公会議…であり、…景教は始まったばかりだったからである。…
http://www.k2.dion.ne.jp/~yohane/00000dna4.htm

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*秦氏経由の祭りには中東的なモチーフが少なくない。


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*少数民族を除き、YAP+遺伝子を東アジアで唯一高頻度に持っているのは 日本人種だけである。YAP+遺伝子は日本人種が間違いなく存在しているという決定的な証拠である。日本の周辺人種にはこのYAP+遺伝子がほとんど無い。
 現在、YAP+を持つ人たちの居住区は中東、 チベット、ブータン、雲南と四川の先住民、 東南アジア北部高地のシーサンパンナ地域、 広西チワン族自治区、浙江省と台湾にわずかに のこる山岳先住民、沖縄、奄美、日本、アイヌ。 そして南太平洋と南北アメリカの先住民。
http://native.way-nifty.com/./native_heart/images/y_chromosome.jpg
http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-52.htm

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*チベット系の羌(キョウ=タングート、蔵人)のアニメ的イメージ。384年後秦建国。

*河西回廊(かせいかいろう、河西走廊、甘粛走廊)
東は烏鞘嶺からはじまり、西は玉門関、南北は南山(祁連山脈と阿爾金山脈)と北山(馬?山、合黎山および龍首山)の間の長さ約900km、幅数kmから近100kmと不規則な、西北-東南方向に走る狭く長い平地である。回廊の形を為し、黄河の西にあるために河西回廊と呼ばれる。地域では甘粛省の蘭州と、6,5000m級の祁連山脈を水源とする、砂漠河川に潤されるオアシス都市群、「河西四郡:武威(かつての涼州)、張掖(甘州)、酒泉(粛州)、敦煌(瓜州)」を包括する。民族では多くの漢族、モンゴル族、ユグル族、チベット族などの民族が居住する。漢の武帝が河西を開闢し、武威、張掖、酒泉、敦煌の四郡を列して以来、内陸の新疆に連なる重要な通路であり、古代のシルクロードの一部分として、古代中国と西方世界の政治・経済・文化的交流を進めた重要な国際通路であった。

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