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禺豆麻佐、十六国の3つの秦の遺民?

  • 2008/05/05(月) 21:02:48

渡来人研究会古代史メイン掲示板保存メモ
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Re: パジリク古墳群 投稿者:とみた 投稿日: 9月18日(月)10時35分43秒   引用
> 下記紀氏さんご紹介のパジリク古墳群
> というのはおもしろいですね。シベリアアルタイ方面の積石塚なんですね。墓質に木材を使用しているのが興味深いですね。
> ただ、紀元前2世紀となると、やや新羅やスキタイの積石木かく墓と年代が相違するのでその辺が課題ですね。


日本人のルーツは諸説あり、南方系の探求と同時に北方系の探求も不可欠ですね。

中国東北の扶余由来があり、江上波夫さんの北方騎馬民族征服説も征服まで行かなくても高句麗に南下など日本への影響は大きいものと考えられます。

草原ルートは確かに一考を要しましょう。ローランの小河墓の遺跡でコーカソイドの女性のミイラが気になります。
5000年前に黒海近辺のインド・ヨーロッパ(アーリア)語族が南シベリヤに移動し、4000年前に南下して西域のローランにたどり着いた。

この民は、トカラ語を話す。

南シベリヤは正にアルタイ山中です。

アルタイから、モンゴルへ5000m級の山脈が連なっています。
パジリク古墳群、確かに注目ポイントです。

歴史の父、ヘロドトスヶ紀元前5世紀に書いた〔歴史〕の中で・・・

スキタイ王の極めて特殊な埋葬風習を述べています。

遺体は全身に蝋を塗り腹腔を裂いて臓腑を出した後香り草をつぶしたものをつめて再び縫い合わせる(腐食しやすい臓物を捨ててミイラ化した)・・・

これは遺跡発掘により事実であることが確かめられました。

パジリカ古墳の王の遺体の右足の脛に、鯰とグリフィンの嘴の刺青が権威と護符の験として彫られている。

スキタイ人のシンボルはグリフィン(頭は鷲で体がライオンという想像上の怪獣)。

スキタイ人は紀元前7世紀~紀元前4世紀ごろまで活躍した民族。これがアフガニスタンに南下して大夏国(パクトリア)でギリシャ人を追い出した。その後月氏が匈奴に追われて精西へ移動しサカ人を追い出しパクトリアへ、追い出されたサカ人はイランのペルシャのパルティアへ逃れる。これが大国化してペルシャ アルサケス朝(中国では発音の似ている安息国という)となりローマと戦う。
しかし一説では、サカ人と月氏は同族という。いずれもイラン系の遊牧民族でしょう。


スキタイ人は騎馬戦術に長け、アッシリア人や匈奴に戦法を教えて、両国は強くなり、秦や漢を脅かせた。


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前秦 投稿者:管理人 投稿日: 9月18日(月)01時19分20秒   引用
秦の用語について、ご意見いろいろですね。
紀元前2世紀から紀元4世紀の秦韓についてでは、6世紀の梁書によると秦人の流入、養蚕と稲作の説明があるようで興味深いところです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B0%E9%9F%93
秦というと、下記ご説明いただた中の前秦ですが、苻健(317-355)の次の大秦天王を名乗った苻堅の墓は彬県大仏寺にあるそうです。http://www.iijnet.or.jp/xipec/sight/meisho/haka02.htm
いまいちまとまりませんが、参考まで。


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パジリク古墳群 投稿者:管理人 投稿日: 9月18日(月)01時05分35秒   引用
下記紀氏さんご紹介のパジリク古墳群
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%B8%E3%83%AA%E3%82%AF%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E7%BE%A4

というのはおもしろいですね。シベリアアルタイ方面の積石塚なんですね。墓質に木材を使用しているのが興味深いですね。
ただ、紀元前2世紀となると、やや新羅やスキタイの積石木かく墓と年代が相違するのでその辺が課題ですね。


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禺豆麻佐 投稿者:tombo 投稿日: 9月17日(日)14時16分49秒   引用  編集済
1. 「日本書紀」によると、雄略天皇15年(471年)、秦酒公(はたのさけきみ)が百八十種の勝(すぐり)(部)を率いて絹嫌(きぬかとり)を献上し、朝廷に一杯に積み上げた。それで「禺豆麻佐(うずまさ)」という姓を賜わったといい、また「禺豆母利麻佐(うずもりまさ)」といへるは、皆盈(み)て積める貌(かたち)なり、と書いてある。

最近では雄略紀の秦氏=機織技術氏族説はほかに根拠がないということでこれを真っ向から否定している者もいる。

2.「日本書紀」皇極天皇三年七月条に富士川のほとりの「大生部の多」というものが、「此は常世の神なり。此の神を祭る者は、富と壽とを致す」と、虫を常世神として祭ったという記事があり、、常世の虫祭りで世間をあざむいた大生部の多という人を打ちこらしめた秦河勝は、
  太秦は神とも神と聞え来る、常世の神を打ち懲(きた)ますも
と、人民から讃仰されている。

秦は ha-ta で ha は魚で倭人、ta は多で鮮卑の穢人。
つまり、秦(はた)は倭人と穢人の混血。

「多という者」が「虫は常世の神なり」とした虫とは、eh =昆虫 を捻じ曲げた「穢人=eh」のことでしょう。

「禺豆麻佐(うずまさ)」の禺豆(うず)がuzuなら、
易者・占い師・水脈の予測者・鉱脈の予測者ということで、
麻佐(まさ)は、ma-sa で篭・籠(かご)のことか。

篭・籠(かご)は、箕や笊の類でもあり、minu(シュメール語) zaru(アッカド語) は選別するという動詞でもある。

秦河勝の膨大な財は何処から捻出したか?
奈良から京都に都を移した時の、資金源は秦氏のようですが?

「禺豆麻佐(うずまさ)」とは、鉱脈の予測者と鉱石の選別者との意であると思われる。


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ついでに 投稿者:おおた 投稿日: 9月17日(日)11時45分53秒   引用
私の姓、は太秦からきたのではないかと密かに思っています。どう考えても「太秦」をうずまさと読むのは当て字です。氏族名としては「おおはた」と読む場合もあり、文字はどんどん変化して「太畑」→「太田」と変わったのではないかと思います。日本語でも朝鮮語でも文章中のh音は消えやすい傾向にあります。多氏も鉄剣銘では「意富」と書く場合もあることから元の発音は「おほ」oho だったでしょう。つまり「太秦」は本来はohohata と発音していた。やがて文中のh音はが消えていってooata →oota になり、その発音にあった文字として「田」に文字を変えられたというわけです。
 ただしとみたさんに怒られそうですが、これは全くの私見です。多氏・秦氏連合が実証されれば現実味を帯びてはきます。


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「□と×」紋は・・・・・? 投稿者:tombo 投稿日: 9月17日(日)11時42分48秒   引用  編集済
「都祁氏は多氏です。

大和を支配するのは都祁氏→倭氏→大三輪氏と変わることと関係があるのでしょうか」・・・・

列島の氏系を三大別すると、穢人系・倭人系・漢人系になるでしょう。
穢人系は陸路を侵攻した「鳥系」、倭人系は海路を侵攻した「魚系」でしょう。

「都祁氏→倭氏→大三輪氏」は、「穢人系と倭人系」の混血を意味しているでしょう。

穢人は鮮卑です、「卑=pi」 と「倭=wa」 のシュメール文字は同一文字です。

「鮮卑も倭も」、ある時間軸に置ける混血種族に対しての中華帝国の呼び名に過ぎない。
漢人とは、黄河流域の農耕民族と他族との混血族が肥大化したとみるべきでしょう。
黄河流域の血を継承しているかいないかで、混血族を区別しているのに過ぎない。

混血種族が歩んで来た道は彼等の遺品に見出す事ができる。



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さすがとみたさん 投稿者:おおた 投稿日: 9月17日(日)11時13分9秒   引用
ですね。確実に勉強を積み上げられていっています。すばらしい。
私も見習わなければ・・

①に関して私見を述べます。「太」の字は私の名前にも使われていますが、中の点は繰り返しの「々」の篆書形を省略したもので、印などでは2点で表されます。「大」の強調で、「泰」と同じ意味でもあるとされます。大西洋と太平洋では、太平洋の方が大きい意味があります。多氏が後にこの字でも姓を表すようになりますが、やはり「大」よりは「太」を使うことが多くなりました。「秦」が中国の大国、「大秦」がローマを表し、五胡十六国時代にはチベット系の符健によって建てられた「前秦」(352~394年)、羌の姚萇によって建てられた「後秦」(384~417年)、鮮卑乞伏部の乞伏国仁によって建てられた西秦(385- 431年)というのもあります。これら。前・後・西は後の歴史上区別するためにつけた文字で、当時は普通に「秦」と名乗っていたはずです。十六国中では前秦の書道は高句麗にも流入し、好太王碑や後の新羅書法にも大きな影響を与えています。高句麗にとっては漢民族国家よりはチベット・トルコ・モンゴルなどの系統の方が自分たちの文化に近く、交流しやすかったというのはあるでしょう。北魏の文化の影響を受けやすかたというのも同じ理由です。
 秦氏の出自に関してはこの研究会でもいろいろと研究が進んでいますが、やはりチャイナが秦の音から来たという説の通り、中国に初めて誕生した本格的な大国家で、近隣諸国に与えたイメージは強烈だったと思います。それに対する憧れから、周りの民族が新興国家や自分たちの出自をそこに求めたがったのは当然だったと思います。秦氏が本当に秦の遺民だったか、あるいは十六国の3つの秦の遺民だったか、その両方が交じっていたかも知れないし、実際に秦の文化は伝播していたのかもしれない。それがやがて朝鮮半島の新羅に根付き、やがて日本に渡来してくる。そして自分たちの氏族名に「大秦」よりも大きい意味の「太秦」をつけたというところでしょうか。
 そしてもう一つ、気になるのが多氏の存在。秦氏と多氏はイメージがけっこうダブる部分も多いのですが、二つの氏族が提携していて、多氏の別字「太」を使ったというのも一つの説ではあるように思います。

②で、科野国造はやはり多氏の系統の金刺氏であると言われていますので、森将軍塚古墳の主が多氏と同族というのはおっしゃるとおりです。


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確実情報の積み上げ 投稿者:とみた 投稿日: 9月17日(日)10時04分28秒   引用
最近読んだ本で、2-3確実と思われる説をご紹介しておきます。飛んでも説に惑わされないために確実な情報を積み上げています。急がば回れ!歴史を紐解くには確かな情報を積み上げるのが早いと考えています。

①太秦と大秦
 太秦と書いてウズマサと呼びますね。秦氏の族長という意味(秦氏と鴨氏の著者中村修 也)
 大秦はローマですね。大秦という国名は大きい秦という意味。秦はすでに滅んだが西域の人々は中国を秦と呼び続けた。秦からチャイナの起源になっている(これは皆さんの常識です)西域人にとって秦(中国)に匹敵する大国のローマを大秦となづけた(中国の歴史:鶴間
和幸)

②森将軍塚古墳の主は、大和の都祁と関係
信州の千曲川畔の有明山の先端部の森将軍塚古墳(前方後円墳)は、科野国造が4世紀中葉に建造したことになっていますが、この人は奈良県の北方の都祁の同族と語っているそうです。都祁氏は多氏です。

大和を支配するのは都祁氏→倭氏→大三輪氏と変わることと関係があるのでしょうか

③ローマと中国との海のルート
中国の後漢時代、初めて漢の人は々はローマの存在を知った。後漢書に大秦王安敦(ダイシンオウアントン)つまりローマ帝国のアントニヌス(紀元後161から180年)が使節を中国に送ったことが書かれています。今のベトナム当時は後漢に属していた日南が外交の窓口であった。そこを介して中国とローマは接触していた。ローマ時代には海のシルクロードが存在していた。

紀元前92年にイランの大国パルティア(安息国)とローマは戦います。すると内陸のシルクロードが危ないので海のルートに切り替わります。ローマが395年ゲルマンの進行によって東西分裂し衰えると、海のシルクロードは一旦衰えます。
シルクロードは草原ルート、オアシスルート、海のルートとありますが自ずと消長があり民族の興亡が絡まります。

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