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邪馬台国=吉備説?大和朝廷吉備中核説

  • 2008/08/30(土) 03:44:29

マキムク遺跡(箸墓古墳)がやばい!

http://www.youtube.com/watch?v=p_ipriFBMk4&feature=player_embedded
 今回のマキムク遺跡の3世紀宮殿跡発見は、従来の飛鳥時代の7世紀からいっきょに400年もさかのぼる大発見。

 吉備=出雲を中心とした大和連合朝廷の根拠地の証明となるだけでなく、皇室祭祀体系の実質的ディレクターであった渡来秦氏(秦王朝後継、原始ユダヤ文化保護者、天皇祭祀少子部=15歳以下の秦氏限定シャーマン部署呪い担当w)との関係が注目される。


 しかも、宮殿は内宮、外宮の構造をもつ出雲、伊勢神宮と同じ構造。
 重要なことは、南北に走る中国宮殿方式と異なり、太陽信仰の東向きに配置されているポイントだ。東には三輪山=蛇信仰=大物主=吉備・出雲神がおり、この神の妻である倭迹迹日百襲姫(やまと・ととひ・ももそ・ひめ)は、この箸墓古墳の主で崇神の叔母、吉備津彦命の姉にあたる。

 邪馬台国の大和説がこれでかなり強化されたが、宮殿からでてきた大量の「船」モチーフのフィギュアの祭祀的意味を研究すべきだろう。

なんかワクワクしてきた(笑)

近く、とんでもない遺跡物がでてくるんじゃなかろうか?




●邪馬台国近畿説の証拠がいよいよ強化されたと、相変わらず、ネットでも邪馬台国論争はにぎやかだ。しかし、学閥の関係からか、遺跡など からはアカデミズムでも証明されている「邪馬台国吉備説=吉備大和合同発展説」が、世間的にはほとんど知られないで、無視されているのは残念だ。


大和連合朝廷の中核に吉備がいた根拠は、明確だ。

1、
・190~247年の卑弥呼実在時期の国内最大墳墓、交易制海権は吉備にあった。
・青めのう、真珠。初期最大古墳のタテツキ遺跡の木管跡には、重量30キロの大量の
朱・水銀を使用(他の国内総使用量の数倍) =卑弥呼は朱好き。


2、
・もともと吉備では国内最古の3000年前の稲栽培跡など、国内最大規模の経済圏をもち、
瀬戸内交易の中心地。半島南部からつながる倭人、海人、秦氏コロニーも古く、吉備平野は豊か。
・紀元8年の王蒙の貸せんも大量出土し、大陸交易の拠点。タテツキ遺跡のご神体「亀石」の
「弧帯模様」は後の埴輪、朝廷独自のシンボル模様に発展。
・亀石には、中央アジア風の人面?の紋章レリーフ。


3、
・8割が吉備に集中する陶棺文化(ユダヤ寒羊図レリーフ等)は中央アジア経由で独特。
・出雲側吉備高原には石積み型の中央アジア様式の北方トーテム系墳墓が多い。
・墳墓遺跡絵画の船は、先が反り返っているゴンドラ。靴とか服装も北方騎馬系描写。
・河西鮮卑、突厥(いまのトルコ、ウイグル、チベット族系?)支配の五湖十六国時代の
中国大陸から、秦氏弓月王をはじめ、多様な亡命政権、諸民族の渡来説。
・380年代以降は秦ハダ河西政権=前秦、後秦王朝末裔亡命渡来説。開拓経済、殖産拡大。
・巨石イワクラ信仰、堤水利土木、たたら跡。一族も健在(総社市秦小学校の校章=弓と月)



4、
・266年に後継の台与が晋に使い。
・その後、邪馬台国畿内説最大の根拠である マキムク・箸墓古墳に吉備の第三期の特殊器台
(後の埴輪)が登場し、出雲やほかの土器、古墳様式が合流していく。
・後漢鏡の集中、秦氏系吉備工人も大和に移動。始皇帝風の巨大土木、前方後円墳建造時代に。


5、
・三輪王朝の神、大物主の妻という伝承の倭迹迹日百襲姫は、箸墓古墳の主で崇神の叔母、
吉備津彦命の姉。大物主は蛇信仰で吉備、出雲トーテムが濃厚で、半島南部、出雲、阿蘇と
同盟連携(支配)していた吉備の大和派遣軍説がある。
・つまり、マキムク以前の国内最大墳墓タテツキの男王政権が内紛で混乱し、最後の吉備女王
台与をマキムクに遷都擁立して、「吉備大和連合朝廷」が成立。


6、
・その後、400年ごろには、当時最大の全長350メートルの造山古墳(未公認天皇陵墓
で日本最大。第四位)が20年、延べ150万人を動員し登場。半島南部、西日本を軍事
経済で支配していないとこうした巨大事業は困難。
・秦氏らの都市計画経済は、金鉱開発、蚕機織、牧畜、田園水利開拓、律令税制にまで
および、造山以降、吉備、河内で墳墓は経済合理化され異常に巨大化していく。
(天皇律令制普及による在郷奴婢の解放=公地公民化、祭祀公共事業化か)


7、
・朝廷重鎮を思わせる初期の外戚関係(吉備から兄媛、黒媛をだした応神・仁徳親子の
吉備訪問日本書紀記述は里帰り?)
・後の雄略時代などにみる数度の皇統継承内紛、半島諸国を巻き込んだ内戦。
・吉備・任那同盟、鉄、金、水銀開拓交易。
・8世紀の白村江の会戦には、吉備ニマに秦氏2万人の水軍が集結、敗戦後唐まで
抑留されるが、後に2000名ほどが唐の進駐軍とともに帰還している。
・朝鮮王子アメノヒボコ伝承。桃太郎伝説。
・唐防衛線である東アジア最大規模の朝鮮山城(鬼城の朝鮮王ウラ伝説)、吉備津彦神社の
お釜神託(卑弥呼神事)




 つまり、王蒙の前漢の時代(紀元8年ごろ)から、数次にわたり、大陸系 渡来人や交易人が来ており、その逆に列島から半島南部に殖民するケース もあるが、9世紀ごろまでは、複数の軍事政権が連携し、ヤマト連合政権を 運営していたのではないかと思われる。

 
 

●邪馬台国論争自体は、古代史のロマンに一般の市民が参加できる開かれた「古代史市民広場」として、数々のエピソード検証、論争は、国民の歴史学習レベルを高度に高め、健全なナショナリズム育成にとってもとても重要だと思う。
 
 しかし、江戸時代からけりのつかない中国文献主義の邪馬台国論争の影で、無視されがちなユラーシア大陸を巻き込む古代日本成立への基礎研究も無視してはならないだろう。
 なぜならば、21世紀のアジアは、ネット空間に30億人以上が参加し、ダイレクトにそれぞれの民族により、自由な歴史検証が可能な時代を迎えているからだ。

 国内ではなんとなく通用する 「天皇万世一系」も、初代天皇すら確定できないのでは、やはりそれは、科学的には幻想でしかなく、戦前の単純な天皇史観を乗り越えるものではないと思う。


・・・・では、アジア共栄の展望を持つ、古代日本史とは、どういうものだろうか?



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この記事に対するコメント

トンデモ史観発見www

ちゃんと文献史学に沿って、漢文の原文を読んでないのでは?

  • 投稿者: まる
  • 2008/10/30(木) 14:10:17
  • [編集]

慧眼ですね!
とんでも論と決め付ける方にはもすこしお勉強なさいということです。
弥生後期の制海権はもとより塩生産、稲生産、の中心地が吉備ですが、そこが倭の都であった可能性について考えられないほうが、想像力の欠如ということかと思います。

  • 投稿者: manai
  • 2009/05/31(日) 19:35:37
  • [編集]

吉備首都説のコメントどうもRe: タイトルなし

> 慧眼ですね!
> とんでも論と決め付ける方にはもすこしお勉強なさいということです。
> 弥生後期の制海権はもとより塩生産、稲生産、の中心地が吉備ですが、そこが倭の都であった可能性について考えられないほうが、想像力の欠如ということかと思います。

コメントありがとうございます。
このブログはあまり見ていないのですが、古代日本、秦氏の話を中心にミクシでも「月光」というハンドルでいろいろ書いています。

  • 投稿者: 河西保夫
  • 2009/07/27(月) 01:06:27
  • [編集]

邪馬台国吉備説に賛同

吉備で同好の志と歴史探訪を続けています。
最近とみに「邪馬台国吉備説」に確信を深めています。
実は日本国成立に最も重要な役割を果たしたと思われる「吉備」 一地方の強大な王国だったとの通説に留まらないものだったと確信を深めています。
河西さんの説、共感します。

  • 投稿者: yamada ryozo
  • 2011/03/04(金) 12:16:26
  • [編集]

マキムクに足守川砂利が!

たしか天皇論で人気の吉備出身の高森教授が、マキムク遺跡から吉備の足守川の砂利が発掘されたといっていた。

当時、祭祀のためわざわざ運搬したのか、タテツキの巨石信仰、天文観測と吉備の祭祀が天皇祭祀のベースに置かれていることはほぼ確定的だろう。

  • 投稿者: 月光
  • 2011/08/23(火) 19:21:59
  • [編集]

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