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イエス=太秦の秘密2 ハダ

  • 2010/11/07(日) 04:22:29

イエス=太秦の秘密 の日記の続き
移動する言葉 ハダ=秦とは? 

検索してみると


●秦氏が持ち込んだ神道
日本民族の象徴でもある 天皇家=神道という関係を否定するかたもいないでしょう。さらに、侍あるいは武士も日本的なものの代表ですが、その本家本元とも言える源氏が崇めてきたの が宇佐八幡宮を頂点とする八幡宮です。

日本に存在する神社は約8万あるといわれています。トップ10の神社が約3万社ありますが、このうち実に9社が秦氏創建あるいは深く関係する神社です。1 位は八幡(秦氏)で、7817社、2位は伊勢神宮(もちろん天皇家の皇祖神を祭った神社、秦氏が深く関わっているといわれる)、3位天神(秦氏)、4位稲 荷(秦氏)、5位熊野(秦氏)、6位諏訪(秦氏)、7位祇園(秦氏)、8位白山(秦氏)、9位日吉(秦氏)と続きます(朝日新聞2007.2.22朝刊 33P)。

このことから、実は日本の神社は殆どすべて、渡来人である秦氏がつくったものだといって過言はないのです。そして、この事実は、「日本人て一体何者?私たちはいったいどこから来たの?」という民族アイデンティティの根幹に関わる問題を提起しているのです。


日本書紀によると応神天皇14年に弓月君(ゆづきのきみ:新撰姓氏録では融通王)が朝鮮半島の百済から百二十県の人を率いて帰化し秦氏の基となったというが、加羅(伽耶)または新羅から来たのではないかとも考えられている(新羅は古く辰韓=秦韓と呼ばれ秦の遺民が住み着いたとの伝承がある)[1]。

また一説には
五胡十六国時代に、シルクロードの入り口であった河西政権の興亡で、氐族の苻氏が建てた前秦の 王族ないし貴族が戦乱の中、朝鮮半島経由で日本にたどり着いたと言う説もある。この説に基づくと弓月君が秦の(初代の)皇帝から五世の孫とする記述に反せず、「秦」つながりで渡来した人々が勝手に「秦」を名乗り始めたと考えてもさほど矛盾はない。


この時期、「秦」を名乗る帝国は、何度も中原を制覇し、短期間に崩壊している。
300px-China_Eastern_Jin.png


古代日本は、中国からの植民文化で成立したようなイメージがあるが、この時期の中華は漢人ではなく、ペルシャ・トルコ系遊牧人種の諸政権が乱立した五胡十六国の混乱期であることを忘れないでおきたい。
中央アジアのトルコやペルシャのひとびとが、今でも「日本人はかって兄弟だった」と祖父の伝承を語り、親近感をもつには、ちゃんとした理由がある。



 十六国(前趙,後趙,成漢,前涼,前燕,前秦,後秦,後涼,後燕,西秦,南燕,南涼,北涼,西涼,夏,北燕)には、秦を名乗る政権だけでも3回登場しており、苻堅{前秦高祖明帝}(前秦) Fu2Jian1 338-385 にいたっては、テイ族出身であるが中華文明に惚れ込み、多民族の融和を目指して長安、洛陽の住民を50万人規模で強制移住させるなどの人工的都市政策を実施する。

img67f9ec9czik5zj.jpg


特に筆者の一族姓でもある秦・河西は、禿髪利鹿孤{南涼康王}(南涼) をはじめ、歴代の遊牧系異民族が中華侵入の要地として名乗る地方政権名称(倭国、同様に河西国表記が歴代中華王朝にはある)であり、初期のイエス伝承や仏教流入、他民族の宗教や芸術が融合するシルクロードやユーラシアの草原につながる中華政権樹立の興亡の激戦区であった。

名前はヒトや文明とともに移動する。

河西回廊は、古代のシルクロードの一部分として、相互に古代中国と西方世界を指す「秦(中国)、大秦(シリア、ローマ)」の政治・経済・文化的交流を進めた重要な国際通路として知られる。


map1.jpg



また、ハタ(古くはハダ)という読みについては朝鮮語のパダ(海)によるとする説のほか、機織や、新羅の波旦という地名と結び付ける説もある。
http://ameblo.jp/kawahara-clan/entry-10398825015.html


●韓国語で「漢字語」+「する」
「漢字語+ハダ」で、漢字語を動詞化できるのは日本語と同じですが、韓国語はこの「漢字語+ハダ」を日本語の何倍も使います。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/1481513.html


●チベットつながり ハダとは、チベット族が祝賀や敬意のしるしとしている帯状の布で、絹や紗などで作られる。
http://www.peoplechina.com.cn/zhuanti/2010-09/07/content_296743.htm


●ユダヤつながり ヘブライ語で「ユダ族」を意味する「(ヤ)フダ」に「波多」(ハダ、ハタ)を当てたと考えることもできます。 ... まず、八幡神「ヤハタノカミ」の「ヤハタ」という名前の発音が、秦氏の「ハタ・ハダ」と同様に、ヘブライ語でイスラエル12部族中の ...
www.naritacity.com/.../journal_main_091215.asp


●秦小学校のHPにこんなこと載せてます。
http://www.hada-es.soja.ed.jp/index.html
(校区の特色 - 歴史の深い秦地区)
秦小学校の校旗に描かれている弓と月。これは,秦の地域の歴史と深い関わりがあります。「秦」の字は「秦の始皇帝」で有名です。「秦」の字は「はた」とも読み,もともとは中国から渡来してきた「秦(はた)氏」がこの地に住んだのが名前の由来となっています。学校の校旗に描かれている弓と月はこの中国から渡来してきた「ゆみづき氏」からとったものです。

弓月君がきたのは389年(応神朝)ですから、古墳時代まっさかりですよね。造山古墳は応神天皇のか(薬師寺さん)とも一部で言われています。

この秦地区東麓に、な~~んにもないということが、本当に不思議です。この謎が重要なことなのかもしれません。

でも 私立の学校ならまだしも 公立の学校で ここまで歴史に踏み込んだこと書けるって やはりこの秦地区の人は 強烈な郷土意識もっているとしか思えません。関東のネットの友人に紹介したところ「考えられない」と言っていましたから・・・。
http://kamadoneco.blog122.fc2.com/blog-entry-635.html


hada100image.gif

>・・・
この秦小学校の紋章は、役場と教員を兼任してた戦前のうちの爺さんたちの仕業かもw
葡萄の産地です。

この秦は、総社市の高梁川西岸のひときわ大きな山・正木山の山頂近くに鎮座する麻佐岐神社がある。
吉備国最古の神社。 備中国の一宮という説もある。

なぜか万葉集や皇室歌会にもでる秦氏の聖山正木山には、謎がおおいようです。

最近は、アカデミズム方面でも密かな発掘ブームになっているという噂も・・・。


確かに、西日本最古6世紀秦廃寺跡以前の墳墓など、渡来系の初期入植遺跡が発見される可能性は高い。
弥生後期最大の1世紀の中央アジア風タテツキ遺跡(倉敷)と5世紀最大の造山古墳を繋ぐ「空白の4世紀日本」のミッシングポイントになる盗掘を免れた遺跡が出てこないとはいえない・・・


在野の古代吉備王国研究第一人者の薬師寺先生と根強い人気の日ユ論が繋がるともっとミステリアスで、エキサイティングなんですがねぇ・・・w




●以下、成田ジャーナルの秦ユダヤ論考
http://www.naritacity.com/journal/main/journal_main_091215.asp

旧約聖書の創世記に登場するアブラハム、イサク、ヤコブらイスラエルの先祖は、民衆を治めるリーダーという意味で「族長(パトリアーク)」と呼ばれています。語源は、ギリシャ語の「父」を意味する「pater」と、「指導者」「王」の意味を持つ「archon」が組み合わされたものです。その後、キリスト教では「司教」という意味で使われるようになり、中国の景教では「波多力」と書き表されました。つまり「波多」という漢字は、イスラエルの先祖を示唆する言葉なのです。

  さて、「新撰姓氏録」には、秦氏が仁徳天皇より姓を賜った際の記述があり、そこには「ハタ」の当て字として「秦」ではなく、「波多」と書かれています。これこそ、秦氏がイスラエルの出自であり、しかも元来ユダヤ教の一派であったキリスト教の影響を強く受けた民族であることの証しではないでしょうか。また、ヘブライ語で「ユダ族」を意味する「(ヤ)フダ」に「波多」(ハダ、ハタ)を当てたと考えることもできます。さらに、秦氏がイスラエル系の景教信望者であるだけでなく、その王系であるユダ族の血統であることも、ほのめかしていると推測できます。

秦氏の氏神は大辟大明神ですが、「辟」に「もんがまえ」を加えると景教におけるユダ族のダビデを意味する「大闢」になることからしても、秦氏の出自がイスラエルの王族であるユダ族に繋がっており、しかも景教を信仰していた可能性は高いと言えます。

  その秦氏は、自らの氏寺である広隆寺だけでなく、全国各地に数多くの神社を建立しました。例えば、全国で見かける八幡神社は、八幡様や八幡宮等を含めると、少なくとも1万社以上も存在し、稲荷神社と並んで日本人にとっては大変なじみの深い神社です。その八幡神社の創設にも秦氏が深く関与しています。そして八幡神社の成り立ちを検証することで、秦氏がユダ族の出であることが、より明確になります。

ユダ族の神を祀る八幡神

「続日本紀」に記載されている「広幡乃八幡大神」は、現存する古文書の中で使われている「八幡」という文字の中でも、最も古い事例です。その八幡神を祀る八幡神社の総本社が、宇佐八幡宮とも呼ばれる宇佐神宮です。宇佐神宮は6世紀、欽明天皇の時代に現在の九州の大分県宇佐市に建立されました。社伝によると紀元571年に八幡神が現れ「誉田天皇広幡八幡麿」、つまり「我、誉田天皇(ホムタノスメラミコト)は広幡八幡麻呂なり」と告げたそうです。誉田天皇とは、応神天皇の死後に贈られた諡号(贈り名)であることから、八幡神のルーツは3世紀後半の応神天皇まで遡ることになります。そして、八幡神の宣言もあり、いつしか応神天皇は八幡神と同一視され、天皇が神として祀られるようになったのです。

  第15代の応神天皇は、実在した天皇であることがわかっていますが、その出自については諸説があります。その謎を解明する鍵が、八幡神社と秦氏の関係に秘められているのです。まず、八幡神「ヤハタノカミ」の「ヤハタ」という名前の発音が、秦氏の「ハタ・ハダ」と同様に、ヘブライ語でイスラエル12部族中のユダ族を意味する「ヤフダ」に酷似していることに注目です。「八幡」は元来、「矢羽田」と書き、それを「ヤハダ」と発音したことから、ヘブライ語で「ユダ族」を意味する「ヤフダ」が語源であったと推測できます。となると、「八幡神社」とは元来「ユダヤ神社」、もしくは「ユダ族の神社」という意味を持つ名称であったことになります。秦氏がユダ族であるとするならば、八幡神として秦氏に崇められた応神天皇も、同じユダ族の出身であると考えるのが妥当でしょう。古文書には、応神天皇の時代に秦氏が大挙して日本に渡来したことが記載されていますが、それは正に、秦氏と応神天皇が同族の出であることの裏付けであり、ユダ族を中心としたイスラエル部族が渡来してきたことを象徴している出来事ではないでしょうか。

 また、聖書にはユダ族の象徴が「獅子」であると明記されていますが、その「獅子」を具現化した像が、日本の神社の境内に安置されている事実も見逃せません。この「獅子」の像とは、狛犬(こまいぬ)と呼ばれる主に石で造られた像のことです。狛犬は、古くから秦氏の手がけた神社に散見され、秦河勝が祀られている大避神社の社殿前にも左右に一対置かれています。その後、狛犬は徐々に広まり、平安時代には多くの神社に定着し、現在でも、日本全国各地の寺社で見かけることができます。つまり、秦氏の関わった神社においては、ユダ族の象徴である狛犬を安置することにより、ユダ族である秦氏の存在を密かにアピールしていたのです。

応神天皇の名前に秘められた天命

   日本書記において誉田天皇と称され、八幡神として祀られている応神天皇の諡号には、「誉田別」(ホムタワケ)や、「誉田天皇広幡八幡麿」(ホムタノスメラミコト・ヒロハタ・ヤハタマロ)があります。前者は古事記において、同じ「ホムタワケ」という発音に「品陀和気」という異なる漢字が当てられています。これは「ホムタワケ」が外来語であり、漢字が任意に当てられていることを意味しています。一見、日本語として不可解な「ホムタワケ」という発音ですが、ヘブライ語で読むことにより、その意味が明確になるだけでなく、応神天皇の使命と、そこに潜むイスラエルとの繋がりを見出すことができます。

 まず、「誉田別」ですが、「ホムタ」はヘブライ語の を語源とした (ホマタ)です。この言葉は「壁」や「城壁」を意味し、「神殿を囲む城壁」、「神殿を守る壁」という表現をする際に使われました。つまり、「城壁」とは「神殿」の類似語であり、互換性の意味を持っています。また、ヘブライ語には「直ぐに立つ」、「最初にできる」という意味の (bakar)という言葉があります。その語源から (bekor)という「初子」、「長子」という言葉や、その母音が変化した (beker)「バケ・ベケ」という「初子」「新しい実」、「最初にできる」という意味の言葉が聖書でも使われています。この「バケ」が「ホムタワケ」の「ワケ」にあたる語源と考えられます。イスラエルの民にとって、城壁を修復し立ち上げるということは、国家を失った際に破壊された神殿の再建を意味します。よって、「ホムタワケ」とはヘブライ語で、「城壁を直ぐに建てよ」、「新しい神殿を立ち上げよ」、つまり、「神の都(神殿)を新たに造営せよ」という意味なのです。

  応神天皇のもう一つの諡号である「誉田天皇」(ホムタノスメラミコト)には、天皇の称号として用いられる「スメラミコト」の読みが含まれています。この言葉は先に紹介した*1通り、ヘブライ語で「栄光の神を奉る」、「栄光在主」を意味します。また、「乃」とも書かれる「ノ」は (na!)、「来たれ」というヘブライ語の言葉です。よって、ホムタ(ノ)スメラミコトは、「都(城壁)よ、来たれ! 栄光在主!」の意味となります。つまり、「ホムタワケ・スメラミコト」とは、「新しい都を立ち上げ、栄光の神を奉れ!」という号令だったのです。
 次に「広幡八幡麿」の「広幡」(ヒロハタ)ですが、これはヘブライ語で「ユダ族の丘陵」「ユダ王国の丘」を意味する (ヒリフダ)と発音する言葉が変化して「ヒロハタ」になったと考えられます。そして「麿」もしくは「麻呂」(マロ)の語源は (メロ)であり、「満ちる」「多くの」を意味します。つまり八幡麿(ヤハタマロ)とは、「八幡」がユダ族を指すことから、「大勢のユダ族」という意味になります。それ故、「誉田天皇広幡八幡麿」(ホムタノスメラミコト・ヒロハタ・ヤハタマロ)とは、「ユダ族が豊かに住む王国の丘陵にて、都を立ち上げ、栄光の神を奉れ!」という信仰を宣言し、人々を激励する言葉だったのです。この号令により、日本の古代史が大きく動き始めます。

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